No-2 人間における「道具」の意味
NEXT(人間の言語と概念的思考)
道具は身体器官の延長・代用、しかし遺伝子変異に依存しない
道具は身体器官の延長・代用です。例えばカナヅチは手(げんこつ)の延長であり、メガネや望遠鏡、或いはレーダーは眼の延長であり、自転車や自動車は足の延長だと言えます。コンピュータはさしずめ、脳の延長だと言えるでしょう。
その意味で道具の発達は、生物進化を代用します。
※、道具をさらに二つに分けて、マニュファクチャまでの、狭い意味での、手の延長としての「道具」(例えば、金づち、斧、ヤットコなど)と、産業革命以降の、手の代用としての「機械」に分けて考える場合も有ります。
狭い意味での道具は、道具とそれを使う人との関係が1対1でした。この段階までは生産の主役は一人ひとりの人間だったし、生産力もその制約が有りました。
機械は人間の「代用」であり、人間が居なくてもそれに代わって生産を上げてくれます。だからこそ「革命」だった訳ですが、ここにきて生産の主役は機械に移り、人間はその運転・保守が主要な役割となりました。今では殆ど無人の工場でロボットが黙々と生産を上げています。
ここでは区別せず、両方の意味で考えます。
身体器官の延長・代用でありながら、実際の身体器官と違い、道具はその進化に遺伝子DNAの変異を必要としません。人間の知識や技術の集積によって、急速に限りなく発達させることが出来ます。
これが「道具」の本質であり、ヒトは道具を作り・使うことで環境に働きかけ、生きる道に踏み出したことで、人間になったのです。
言いかえれば、道具は、人間を「生物進化の法則」の制約から解放し(勿論、全てではないが)、その意味で人間を、自然・生物的存在から社会的存在のステージに乗せたのです。
道具の進化に遺伝子変異を必要としない
延長・代用でありながら、実際の身体器官と比較した場合の道具の特質は、その発展が遺伝子DNAの変異に依存しない、と言うことです。
遺伝子変異、つまりは生物学的な進化を待つことなく、社会的な知識や技術の集積によって、急速に限りなく発達させることが出来る点です。
ここに、生物学的には殆ど差異の無い、チンパンジーやボノボ、或いはゴリラなどと比較しての、人間だけの巨大な文明の違い・行動の違いを理解する鍵が有ります。
言いかえれば「生物学的な連続と、人間だけの社会的飛躍」を両立させる鍵が、道具です。
- 遺伝子が示すヒトと他の類人猿との近縁度(ヒトと、チンパンジー、ボノボとの、遺伝子DNA塩基配列の差異は、最新の研究では僅か1.23%に過ぎない)、つまり生物学的にヒトは、これら2種を含め、他の類人猿と殆ど変りの無い、単なる「サル」に過ぎない、と云う、近年ますます明らかになっている生物学的な知見が、片方に有る
- しかし同時に、類人猿と比較してさえ飛びぬけて高度な、人間の思考や文明、他の動物の群れとは質的に異なる人間社会と言う、子供でさえ分かる現実が、片方にある。
この一見矛盾する2つの事実に対し、その両立・整合性を問われ、特に進化生物学陣営を任じている側からの、説明不能とも見られる混乱が見られる。例えば………、
「毛だの神だの、サプライズだの」
「…ヒトとチンプ」
「ヒト その他」
結局、生物学的な近縁度(生物学的連続)と、人間の思考、文明、社会(社会的階層への飛躍)を両立させる為、彼らが持ち出してくる論法は、
- 1.23%とも言われる僅かな生物学的差異の中に、「調節遺伝子」やら「コントロールリージョン」やら、挙句の果てに「サプライズ」やらを持ちこみ、ことさらにその差異を過大評価すること。
- 他の動物の「道具」や「文化」「群れ」と、人間の道具、文化、思考、社会の違いを、ことさらに過小評価し、全てを「程度問題」に押し込めること。
この二つしかない。
1 は、あくまでも「生物学的」な範囲で解決しようとして、逆に、創造論に共通する、サプライズなど「奇跡」を持ちこまざるを得なくなっているし、人間のケースにだけそう云うものを想定しなければ説明がつかないと云うご都合主義に陥っている。
2 は、やはり大きな無理が有るだろう。チンパンジーが使う「アリ釣りの枝」と、人間の、例えば核ミサイルや、相対論や量子論を駆使したGPSなどが、単なる「程度問題」の違いしかないと主張するとしたら。
詳細な批判については、上掲のリンク先で述べています。
一般に生物の生存様式(動物で言えばその行動一般)は、遺伝子変異と自然淘汰に依存します。つまり「進化」による形質変化を待つ必要があります。しかし、人間の道具はその手続きと経過を必要としません。
ある種の恐竜の前肢が羽根に変化し、鳥となって空を飛ぶまでに、何万年或いは何十万、何百万年掛かったか、正確なところは承知していませんが、兎も角長い時間を必要とします。
しかし、羽根の延長としての航空機は、ライト兄 弟の初飛行から僅か100年位しか経っていないにもかかわらず、今や月に人間を送り、太陽系の最外部を覗うまでになっています。
100年と言う時間経過は、「生物進化」の視点から言えば全く問題にならない時間です。しかしこの間に人類は、トリが地質学的時間経過を経て達成した進化を遥かに超えて、その行動様式を激変させている訳です。
インターネットは、地球の裏側の出来事が「見え」たり「聞こえ」たり、自分の声や情報をを届けたりする点で、人間の目や耳、声の延長だと言えるでしょう。このインターネットが誕生してほぼ半世紀ですが、10年後にインターネットがどこまで進化しているか、私などには想像もできません。
全ては、「遺伝子変異=生物進化」を待つことなく、それに依存しない道具の発達によるものです。
環境依存からの解放
動物の行動は身体のつくりと密着しています。
遺伝子変異に依存する動物の行動様式は、従ってその動物の姿・形を見ればおおよそ予測がつきます。羽根を持っていれば「空を飛ぶだろうな」と予測出来るし、肺でなくえらを持つ動物は、例外なく水中生活をしているだろうと予測出来ます。
つまり動物は(生物一般でも同じ)、置かれた環境での淘汰圧を受けて現在の姿が有る訳で、形質と行動が直結しているのはいわば当然だと言えます。
この原則は、種や属など、系統を超えて共通です。
コウモリは哺乳類ですが、空を飛ぶ為にはハネを発達させる必要が有ったし、土の中で生活するモグラとケラは同じような形の前足を持っています。
このように、異なる系統の生物が、置かれた生態的地位(環境)を反映して、共通の形質を発達させることを「収斂」と呼びます。
環境に合わせて身体の形を変え、それによって環境に適応して来た動物は、従ってその環境でしか生きることができません。遺伝子に密着した動物の行動様式は、環境にも依存するのです。
「鳥は自由に空を飛べていいな」などと言いますが、ヒバリを海辺で見ることはできないし、カモメを麦畑で見ることも有りません。
その点でも、「道具を作り、使って環境に働きかけて生きる」道に踏み出した人間は、環境依存からほぼ解放された唯一の動物で有る訳です。
今、人間は、極地や高山を除き、地球の陸地のほぼ全域に、その生息域を広げています(必要とあれば人間は、南極や宇宙にさえ基地を作り、生息域とします)。
道具の作成が、意識・脳に与えた影響
道具を作ると言うことは、仮にそれがどれ程幼稚なものであれ、それを使うことを予想し、その目的に適うように目の前の材料を加工する、と言うことを意味します。
目の前に飛び出してきた獲物を、反射的に捕らえると言った目先の具体的な現象を「感覚」するだけでなく、将来使うであろう時のことが予想出来なくてはなりません。つまりは抽象的な「認識活動」が不可欠です。
或いは、石を割って石器を作ると言う行為は、目の前に有る材料としての石が、石器にとって必要な、「硬い」と言う、既に存在している性質を認識する能力が当然必要です。
同時にそれだけでなく、「尖った形」と言う、未だそこに存在していない性質までも認識する能力が必要です。
目の前の、今現在、直接的に感覚出来ることを脳に反映するだけでなく、将来の予想される出来事、目の前に未だ存在していない要素までも反映する能力。道具 を作り、使うことを通じて、幾世代もの時を経て次第に人間の意識が、つまりは脳が鍛えられて来たのです。
又道具を作り、使うと言うことは手先の器用を促します、それは又、おそらくその働きを司っている中枢神経・脳の発達を促すことになったでしょうね。
道具は人間が作るものですが、同時に道具が人間をつくったとさえ言えるのではないか。
つまりは、最初に頭が良かったから道具を作ることが出来たのではなく、道具を作る過程で抽象的思考、理性的段階の認識に至る道が開けていった。そう言う認識です。
化石が示す、脳容量の増加過程と出土する石器の進化(オルドワンなど)も、それを裏付けていると思っています。
動物の「道具」と、人間の道具
人間以外の動物にも、道具の使用が幅広く見受けられます。「使用」に留まらず、道具「作成」の観察記録まで報告されています。
例えば、アリ塚の白アリを釣り上げる為に適度な木の枝を折り、その枝の先を噛み砕いて、釣り上げ効率の向上を図るチンパンジー。
倒木の中のカミキリムシの幼虫を釣る為に、ウクイノキの葉の葉柄などを「加工」して使うカレドニアカラス。
実験室では、高いところにあるバナナなどを叩き落とす為、穴のあいた棒に別の棒を差し込んで長くする、チンパンジー等の観察例も有ります。
ではそれら、彼らの作る道具と、人間の道具はどこが同じでどこが違うのか、と言う問題です。
これについては、実際の観察に基づいての、京都大学人類進化論研究室による、チンパンジーの道具使用(作成)の分析が有ります。
「無断で引用禁止」とのことですので、掲載先へのリンクに留めます。私としてはここに掲載されている論点について、ほぼ全面的に納得しています。下記URLを参考にしてください(下記URLで、左側の「道具」ボタンをクリックのこと)。
http://jinrui.zool.kyoto-u.ac.jp/ChimpHome/chimpanzee.html
なお、この掲載文を論拠として、逆に私の主張(生物学的連続と、人間だけの質的飛躍)への批判・論難の材料とし、「全ては程度問題」とした主張に対し、私の反論は…、
「道具と概念的思考」
……に掲載してあります。こちらも参考にしてください。
上記リンク先を読んで貰えば、ほぼ言いつくされているのですが、大きく言って次の三点でしょう。
-
動物の「道具」は、あくまで臨時的・不随意的・偶然的なものです。
つまりそれがなくても、その動物の生存に死活的な影響を与えません。
しかし人間から全ての道具(パンツから家から)を排除したら、ヒトは死活的な影響をうけるでしょう(そもそもそんな状態は、想像もできませんが)。 -
動物の道具は、仮にどんなに複雑で有ったとしても(実際は単純)、あくまで目の前の感覚依存の産物です。
それに対し人間の道具は、感覚依存(悟性的認識)を超えて、理性的・概念的思考の産物です。例えばチンパンジーに「二連滑車」は絶対にできない筈です。まして目に見ることのできない相対論や量子論等、高度な数学や概念的思考を駆使した現代の人間の道具と、動物の「道具」の差は、単なる「程度問題」などでは絶対にありません。 -
人間の道具はその始まりから、社会的な性格を持っています。しかし動物の「道具」は、基本的にその個体の範囲のものです。
この点は、「社会」の章で又触れる機会が有るでしょう。
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