No-3 生物学の枠で説明できないこと
NEXT(人間に見る遺伝子型と表現型)
人間とサル達の、生物学的近縁度と、「表現型」
人間と他のサル達、特にチンパンジーやゴリラ等、類人猿との、塩基配列の差異に見られる生物学的な近さは、前ページで見た通りです。我々人間は生物学的には完全に類人猿の1員なのです。
現実に見える、外見と行動様式の巨大な差
しかし、改めて言うまでも無く現在の人間と、チンパンジーやゴリラ、ニホンザル等は、外見上も、そして何より行動様式が大きく異なります。
又、人間と言う種だけを見ても、肌の色や身長等の形質、取り分け行動様式は千差万別です。エチオピア人を以て人類を代表することは出来ないし、イギリス人を以て代表することも出来ません。
チンプやボノボと人間の、この形質的・行動様式的な違いを、1.23% に象徴される遺伝子的差異で説明することは困難です。
同時に、同じヒトと言う種で有りながらこれだけバラエティ豊かな違いを、0.07%の遺伝子バリエーションの枠内で説明することも、なかなか難しいでしょう。
チンパンジーはヒトに比べ、遥かに遺伝子上のバリエーションが広いのですが、実際の見た目は人間同士の間に見られる千差万別は見られません。一つの例として、彼らが使う「ことば」は、おそらく生息域や群れの違いを超えて、チンパンジーならお互いに通じるでしょう。しかし人間の場合はそうはゆきません。
前ページで見た「遺伝子的差異と形質・行動の相関関係」は、少なくとも人間に関しては成り立たない、と言えます。
遺伝子変異と「表現型」の逆転現象
特に説明を困難にしているのが「逆転現象」でしょう。
前に見たようにチンプ・ボノボから見た時、遺伝的に一番の近縁は人間であり、その差は殆ど有りません。ゴリラやオランウータン、ニホンザルなどはその何倍もの差が有る訳です。
本来ならこの近縁度を反映して、表現型もチンプ、ボノボ、人間が一番似通っていて、次にゴリラ、オランウータンと続き、ニホンザルなどは相当違った様相を見せるのが普通だと言えます。
しかし現実は、人間だけが飛びぬけて特殊で、他のサル達は一様に森やサバンナの住人として、概ね「サル」としての共通性を見せています。
この本来の生物学的近縁度と、実際の様相の違いを、遺伝子DNAの塩基配列の違い―生物学の枠内で説明するのは無理でしょう。
そのことを率直に吐露しているのが、日本サル学の創始者である今西錦司です。
今西錦司の嘆き
日本の、と言うより世界の霊長類研究の創始者として知られる今西錦司は、「『サル学の現在』平凡社」の中で、「人間は本当にそんな特殊な存在なんでしょうか」と立花隆に問われ、「実際我々の生活を見たら、他の生物とまるで違いまっせ」と答えている。
特に立花が「類人猿を調べれば調べるほど、サルとヒトの間は距離が狭い………。遺伝子の研究などによると驚くほど近いと言うことが分かって来た。DNAレベルでは、サルとヒトは殆ど違いが無いと言う学者もいる」と、サルとヒトとの近縁度を指摘しながら、「それでも人類の祖先とサルとの距離は、離れすぎていると言うことになりますか」と質問したのに対し今西は、「うん」と答えつつ、人間の特殊性を強調して「ぼくは、もう今、類人猿から人類の起源を探ろうという野心は捨ててます」と述べている。
「人類の起源を類人猿に求めても、もう求められんという考えやな、ぼくは」と。
霊長類研究の第一人者である今西錦司が、その研究の結果として、人間は他の生物とまるで違う、と述べ、類人猿研究の延長線上には人類の起源の答えは求められない、と達観する。
若い時の今西は西田哲学に興味を示したり、晩年はサル学から距離を置き、進化論に傾斜して「種は変わるべき時に変わる」と述べたりと、首を傾げることが無い訳ではないのですが、しかし長年のサル、類人猿研究と思考を経たこの今西の言葉には重みと誠実さを感じます。
類人猿の延長線上、つまり生物学的な枠の中だけでは人間の理解に至らないとすれば、ではその答えは何処を探せば見つかるのか?、という問題が提起されることになる筈です。
この問題について今西は答えを提示していないが、本来ならその方向で、つまり生物学的枠内を超えた所で「人間の本質」を模索すべきだったのです。
生物学の枠内に拘る程、逆に人間の神聖視に繋がる場合が有る
しかし今西が捨てたと言う「類人猿から人類の起源を探ろうという野心」に拘り、人間をあくまでも生物学の枠内で説明しようと、進化生物学の専門家がなかなか苦労している様子が書籍やWebサイトで散見できます。
専門家も陥るご都合主義
アドルフ・ポルトマン(Adolf Portmann、1897-1982)と言うスイスの著名な動物学者がいます。この人は『人間はどこまで動物か』と言う著作の中で、「人間は他の哺乳類と比べ、1年ほど早産である」、「人間は生後1歳になって、真の哺乳類が生まれた時に実現している発育状態に、やっとたどりつく」との主張を展開しています。この見解は卓見です。このサイトでもその線に沿った主張展開をしています。
しかし、ポルトマンが他のサルたちと違う、「人間の属性」として挙げている次の三点は頂けません。
- 直立二足歩行
-
道具・言語の使用
(※ 管理人注 ここまでは良いでしょう。このサイトと同じ主張です。しかし次に………、) - 洞察力、つまり未来予測性が有るかどうか、
……だと言うんですね。そしてこのボルトマンの主張を紹介していた日本の学者も、三番目の「洞察力」が非常に重要だと述べています。
しかしこれはチョッと考えれば直ぐ分かることですが、完全なトートロジーです。
「洞察力」は確かに人間と他のサル達を区別する重要な属性では有るにしても、それは人間化の結果です。元々ヒトと、チンプやゴリラは過去において同じ動物だったのであり、その時そこに「洞察力」についての違いなど、何も無かったのです。
重要なことはかって同じ動物だったチンプやゴリラとヒトで、どうしてヒトだけが洞察力を身に付けることが出来たか?であって、その原因に結果を織り込んではいけません。
少なくともこの三点を、同列に並べるべきではありません。
こう言う論法で言えば、つまり進化の結果として達成された属性を、ヒト起源と同列に持ち込む見解は、旧約聖書の「アダムとイブの誕生」に繋がります。最初から出来上がった形として人間を考える訳ですから。
「生物学的」枠内に囚われてしまうと、逆に人間を神聖化したものに押し上げてしまう危険が有る、その一例です。
言う方も言う方だが、それを持ち上げている「専門家」も専門家だと思った次第です。
生物学的事実と日常的感覚のギャップ
今西錦司が喝破した「実際我々の生活を見たら、他の生物とまるで違いまっせ」と言うのは、我々の日常的な普通の感覚です。
新宿やニューヨークの高層ビル群から都市を眺めながら、自分達を森の住人であるチンパンジーやゴリラと同列視している人はいないでしょう。日常的には誰もが無意識に、自分達人間を特別扱いにしているのです。特別扱いにしていながらそれを特に意識していないのは、その「特別扱い」があまりにも当たり前の感覚になっていて、逆に問題意識に登って来ないだけの話です。
人間はチンパンジーやゴリラを檻の中に閉じ込め、動物園として見物の対象に見下しています。又医学の実験材料に使ってさえいます。
自分達人間を、一番近縁な、これら兄弟とも言える類人猿からさえも切り離し、特別な存在と考えているのでなかったら、到底合理化できない行動です。
日常的な意識としては自分達を特別な存在として居ながら、その感覚を特に問題視しない程にまで、その意識は定着しているのです。つまり素直に見た時、今西錦司ならずとも、これが常識的な感覚なのです。
これは進化生物学陣営に属する人も同じでしょう。動物園や医学実験に対し、進化生物学陣営から抗議が挙がったと言う話を聞いたことが無い。
ところが改めて「人間の特殊性」を指摘し、問題を建てた途端、進化生物学陣営の一部(あくまでも一部です)から出てくるのが……、
- 進化に意図された目的は無く、全ての生物はそれぞれに進化の最先端にいて、それぞれに特殊な存在なのであって、人間だけが特殊なのではない。
…と言う、このこと自体は間違いではない非難です。そして次に続くのが、
- 人間と他の動物との違い・差は全て程度問題に過ぎない。
と言う主張です。
しかし人間の特殊性を否定し、「生物学的な共通性」や「程度問題」を強調すればする程、自分達も含めた日常的な(その意味で、素直で常識的な)意識・感覚との整合性が取れず、その説明はご都合主義、論理矛盾にならざるを得ません。
進化論フェチが陥ったご都合主義
今西錦司が喝破し、我々が日常的に感じている「他の生物とまるで違う」人間の有り様を、遺伝子DNAの塩基配列1.23%が示す生物学的連続の枠内で両立させようとした場合、説明は次の二つしか有りません。
- 人間と他の生物、特に類人猿との「まるで違う」部分を、極力過小評価し、その違いをあくまでも、生物としての「程度問題」に押し込めること。
- 塩基配列を含め、僅かな生物学的違いの中に、例えば「調節遺伝子」だの「コントロールリージョン」だのの要因を持ち込み、あくまでも生物学的枠内で、「まるで違う」部分を合理化しようとすること。
私の経験から言っても、某進化論掲示板での議論の中で、人間とチンパンジーとの、現実に見られる大きな違いを、塩基配列1.23%の生物学的枠内で全て合理化しようとして、結局そこに「調節遺伝子」だの「コントロールリージョン」だのと、チンパンジーやボノボでは考えずに済んだサプライズやミラクルなどを、人間の時にだけ持ち込まざるを得なくなってしまう度し難いご都合主義的論理に、つくづく辟易したものです。
自分で「人間だけの特殊性」を否定しておきながら、その説明にサプライズやミラクルを持ち込む論理矛盾。結局そこには創造論的な奇跡に繋がる考え方だと言うことを、言っている本人が気づいていない。
或いは人間とサル達の違いを、あくまでも「程度問題」に過小評価する、私からすれば現実を素直に見れない頑迷さを感じたものです。
参考までにこちらを
その他全体として、こちらを
人間と他の生物との「質的な違い」
人間と他の生物は本当に違うのか?
立花隆が今西錦司に問うた「人間は本当にそんな特殊な存在なんでしょうか」に対し、今西に替わって次に、人間と他の動物、特に類人猿たちとの「質的な違い」を証明して行きます。
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